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横浜中華料理店経営者射殺事件・渋谷駅駅員銃撃事件① 〜死刑囚・熊谷徳久の73年間〜

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どうもこんにちは、筑前です。今回もまた少し昔の事件を取り上げます。今回はその事件の犯人の生い立ちを紹介しようと思いましたが、その前に軽く事件の概要。以下は犯罪世界を漂う様、最高裁の判決文などより。

 

熊谷徳久被告は2004年4月に窃盗罪で服役していた刑務所を出所すると、ディスコの開店資金の為に強盗を計画。

 

①熊谷被告は2004年5月6日、当初は東京駅のキヨスク集金事務所を襲撃するつもりだったが、集金所を発見できずに腹いせでJR東京駅地下三階を焼損しようとして放火したが、建物に燃え移る前に消火されて未遂に終わった(放火未遂罪)(だが、熊谷の思い込んでいたキヨスク集金事務所というのは存在していなかった模様)

②熊谷被告は従業員の給料用の現金を強取しようと考え、5月27日、横浜市の警備会社事務所に侵入、従業員に拳銃を突き付けて脅迫したが、現金を発見できずに未遂に終わった(建造物侵入罪、強盗未遂罪)

③熊谷被告は横浜中華街の中華料理店経営者の男性(当時77歳)から売上金などを強取しようと考え、5月29日、男性の横浜市中区の自宅前で男性を待ち伏せし、男性を拳銃で射殺。現金43万円余りを強取した。(強盗殺人罪

④熊谷被告は渋谷駅の駅員が運ぶ渋谷駅の売上金を強取しようと考え、6月23日、朝の通勤時間帯の渋谷駅構内にて駅員の男性(当時33歳)が持つ紙袋の中に売上金が入っていると思い込み、駅員に殺意を持って発砲。男性は右足麻痺などの後遺症が残る重傷を負った。その紙袋を強取し、その際に拳銃一丁と実包5発と共に携帯して所持した。(強盗殺人未遂、拳銃発射、拳銃加重所持)

その後の6月6日に熊谷被告は渋谷駅駅員銃撃事件で出頭しました。横浜市の事件についても警察が追求した所、熊谷被告が犯行を自供しました。

 

上記が熊谷被告の犯行です。裁判は検察側が死刑を求刑しますが、東京地裁の判決は「無期懲役」でした。死刑回避理由として

・殺害された被害者が1人

・殺人などの重大前科がない

・被害者の家族らに謝罪の手紙を送っている

上記の点を挙げました。検察側はその後に死刑を求めて控訴。

しかし東京高裁では東京地裁無期懲役判決を破棄しました。裁判長は一審破棄理由を以下のように述べています。

「拳銃が使用されて一般市民が標的になり、国民を恐怖に陥れた。他の凶器による犯行以上に危険かつ悪質で社会的な非難は強い」

「被害者の遺族らの憤激や悲嘆の念は計り知れない。また右ほおに拳銃を押し付けて発射した態様などから、死亡被害者一人だからといって死刑を回避するケースではない。一審は量刑判断を誤っており、破棄を免れない。10回懲役刑に処され、度重なる矯正教育にもかかわらず犯罪性向は深刻化しており、被害者が1人でも死刑をもって臨むほかない」

一部の事件は自首が認められましたが「事案の重大性にかんがみ、有利な事情を酌む程度には限度がある」と判断しました。

そして最高裁で弁護側は「殺人の被害者は1人で、計画性もないずさんな事件。判例基準からみても、死刑は重過ぎる」と主張しますが、2011年に最高裁は上告を棄却し、熊谷の死刑が確定しました。以下は最高裁判決理由

(中華料理店経営者射殺、渋谷駅駅員銃撃事件について)「至近距離から発砲するなど、いずれも確定的殺意に基づいており冷酷で残忍」

(弁護側の殺人の被害者は1人で死刑は重過ぎるという主張について)「撃たれた駅員は右足が完全にまひするなど後遺障害に一生苦しむことになり、結果は重大」と退けた。

「事業を起こすために大金を得るという身勝手な動機で1人を殺害し、1人に重傷を負わせた人命軽視の態度は強い非難に値し、死刑を是認せざるを得ない」

 

そして死刑確定後の2013年9月12日、熊谷の死刑が執行されました(73歳没)

軽く事件概要を紹介した所でここからは熊谷の生い立ちを紹介します。(以下はほぼWikipediaからの引用)

 

熊谷は1940年5月8日生まれだが、熊谷は戦争孤児で、もう一つの戸籍があり、この戸籍の名前は「入佐 求」と言い、こちらは1938年1月25日生まれとなっている。生まれてすぐに母親が失踪し、2歳頃に父親が自殺。その後に父方の伯父に引き取られたが、伯父の子供である従兄弟たちと折り合いが悪く、1945年7月29日の枕崎大空襲を機に伯父の家を出た。その後は鹿児島市内や国鉄門司港駅付近で過ごしていたが、しばらくして門司から遠出して駅で寝ていた所を夫婦に声を掛けられた。ここで「熊谷」という性を与えられ、炭鉱街に住む彼らの下で1ヶ月を過ごした。その後は門司に戻り、門司や小倉で靴磨きなどをして生計を立てていた。その後、炭鉱で栄えていた田川郡川崎町へ移り住み、国鉄豊前川崎駅で2ヶ月ほど暮らしていたが、戦死した息子の妻、孫たちと4人で暮らしていた老婦人に拾われ、ここで「徳久」という名前を与えられた。この「徳久」という名前は老婦人が「徳久」を拾う少し前に徳久と同年代の孫が病死しており、同じ年恰好の孤児を引き取ろうと考えていた。やがて「熊谷徳久」は小学校に通うようになり、「徳久」もこの老婦人には心を開いていたが、その頃に老婦人は亡くなってしまった。老婦人が亡くなった後は「徳久」を老婦人の娘婿(娘の夫とした男性)が可愛がって育てていたが、この娘婿も程なくして亡くなってしまった。熊谷は愛情を注いでくれた彼らを強く慕っており、それらの出来事を振り返り「それ以来、何十年もふと『もし彼らが生きていたら、犯罪人生を歩むようにはならなかった』と思うことがあったと述べています。

その後、老婦人の次女である女性に養子として引き取られたが、彼女の息子に出会った事で、ここから徳久の人生は狂っていってしまいます。徳久はこの息子と共に盗みなどを働くようになり、それ以降は犯罪に手を染めるようになりました。以下は熊谷の前科・前歴です。(あまりに多いので噛み砕きます)

 

・少年時代に窃盗4回、軽犯罪法違反1回で計5回に渡って検挙され、少年院に

・成人後、侵入窃盗を繰り返して6回にわたり懲役刑に処され服役した。

・賭博罪で計3回にわたって罰金刑

・常習賭博罪で逮捕され、懲役刑に処される

・傷害罪で罰金刑に処される

・強盗を企てて、地下鉄の地下通路で男性に包丁を押し付ける等して男性の鞄を強取し、男性に1週間の怪我を追わせた強盗致傷・銃刀法違反容疑で懲役刑に処される

 

熊谷は1985年1月に仮出所し、伊勢佐木町の事務所で働いていたところ、保健外交員の女性と恋に落ち、彼女の妊娠を境に結婚した。妻の当時11歳の連れ子と共に新婚生活を始め、披露宴の3ヶ月後(1987年)には娘が誕生した。中華街で中華料理店を経営したり、歌舞伎町で中華饅頭の販売をして成功を収めた。さらに表参道、渋谷で中華饅頭の販売に成功し、1989年には代々木公園で商売を始める。当時の商売は上々で、当時営んでいた屋台村はテレビの取材を受けてさらに売上を伸ばし、銀座へ進出した。しかしこの頃にアルバイトの中国人女性が退職・帰国直前に熊谷の順調な仕事ぶりに嫉妬した男子留学生からそそのかされて売上金を盗もうとした事件が発覚。この頃には熊谷は本格的に事業を興そうとしていたが、妻に「そんなお金はない」と告げられていた。熊谷は1993年に護身用として拳銃を知人から購入し、横浜市内の公園に埋めて隠していた。そんな中、1994年頃に事業が落ち目になっていた時に屋台を出す場所でトラブルとなり、相手をビール瓶で殴って傷害罪で逮捕され、熊谷は罰金刑に処されました。妻は熊谷の留置中にも一度も面会に訪れず、罰金も支払いませんでした。これ以降は横浜の警備会社で働いていた(1995年3月頃に退職)やがて妻との関係が冷え込んでしまい、妻が娘に熊谷の前科を言ったことで熊谷が激怒。熊谷は包丁を妻に突き付けて「今まで俺が出した金を出せ」と脅迫したが、娘が体を張って制止し、熊谷は包丁を連れ子の長男に渡して家を去った。(約10日後に離婚成立)

離婚後、熊谷はタクシー運転手として働くために運転免許を取得しようとするが、結局失敗しました。そして熊谷は再び犯罪に手を染めました。1996年1月に横浜市中区の路上で地方銀行支店の職員を金属製の工具で殴り、小切手を強奪する事件を起こし、同年2月に強盗致傷容疑で逮捕されました。強盗致傷罪に問われた熊谷は懲役6年の実刑判決を受けて服役したが、その間にも(後に本事件で用いた)拳銃を用いてキヨスク事務所から売上金を強奪する強盗計画を練り続けた。そして「東京駅のキヨスク両替所には駅の各売店から現金が集まってくるだろうから、大金があるはずだ」と思うようになっていき、次第に''キヨスクの集金事務所''の襲撃を強く決意していった。その後2002年1月に網走刑務所を出所するも、キヨスクの集金事務所の強盗計画を実行に移すために自動車を盗む事件を起こし、逮捕され、窃盗罪でまたもや懲役刑に処されてしまった。その間は窃盗事件が強盗目的である事や、拳銃を隠匿所持している事を隠し続け、服役中も「強盗計画」の為に看守の目を盗んで体作りに励んだ。熊谷はついに刑期を終え、2004年4月12日に熊谷は出所し、本件を起こす事となった。

 

熊谷徳久の考察

熊谷の起こした事件は1人を殺害し、1人に一生の後遺症を負わせた稀に見る凶悪事件であり、擁護は出来ませんが、熊谷の生い立ちに関しては時代風景もあるでしょうが、この記事を書いてる時に辛すぎて泣いてしまいました。こんな壮絶な幼少期を過ごした殺人犯は現代には中々いません。彼の生い立ちだけには同情出来ます。熊谷は生まれてすぐの頃に母親が失踪、2歳の頃には父親も自殺というあまりに壮絶な幼少期を過ごしました。そして伯父に引き取られるも、従兄弟達と馴染めずに空襲を機に家出。そしてその家出先で出会った夫婦に「熊谷」という性を与えられました。暫くは夫婦の元で過ごし、その後は炭鉱で栄えていた川崎町へ移り住み、駅で過ごしている所をあの老婦人に引き取られました。そしてその老婦人の「徳久」という名を与えられました。この老婦人は熊谷の事を可愛がっており、熊谷にとっては母親のような存在だったでしょう。しかし老婦人は亡くなってしまい、娘婿に育てられますがその娘婿も亡くなってしまいました。もしも彼女達が生きていたらこの事件も起きる事は無かったと考えると凄く切ないです。その後は老婦人の次女に引き取られますが、彼女の息子と出会ってしまった事で熊谷の人生の歯車が狂ってしまいます。熊谷はこの息子と出会うまで犯罪を犯した事は無いと思われるので、おそらくこの息子と出会ってなければこんな犯罪人生にはなっていなかったかもしれません。ここから何度も少年院や刑務所に入るようになりました。そして保健外交員の妻に出会い、結婚して娘も授かりましたが、結局は熊谷のせいで離婚になってしまいました。熊谷が起こした傷害事件のせいでこうなってしまったのに妻に包丁を突き付けて「お前に出した金を返せ」と言うのはあまりにも理不尽です。そしてここからまた犯罪に手を染めるようになりました。そして銀行職員を襲う事件で服役中に「キヨスク集金事務所を襲撃する」という計画を考えます。熊谷はこの存在しない「キヨスク集金事務所」に執着しており、事件時にも結局見つけれず(そんなもの存在してないので当たり前)放火未遂を起こしました。銀行職員を襲う事件での服役を終えて、自動車を盗む事件を起こしてまたもや刑務所に入り、出所した後に本事件を起こしました。拳銃を使って1人を殺害、1人に後遺症を残す程の重傷を負わせるというのは犯罪史上稀に見る悪質な犯行であり、高裁で無期懲役判決を覆した裁判長の判断は正解だと思います。また、この事件は基本的に死者2人以上じゃないと死刑にならないと言われていますが、死者1人で死刑になった事件の1つでもあります。さっきも言いましたけど、熊谷に「徳久」という名を与えた老婦人が生きていたらこの事件は起きる事は無かったでしょう。熊谷本人も「何十年も老婦人が生きていたら犯罪人生を歩むことはならなかったと思うことがあった」と言っていたので。

最後に本事件で亡くなった方にご冥福をお祈りします。

 

参考文献

 

・犯罪世界を漂う様(死刑確定囚リスト)

最高裁判所第三小法廷判決 2011年(平成23年)3月1日 集刑 第303号57頁、平成19年(あ)第1006号、『銃砲刀剣類所持等取締法違反、強盗殺人未遂、強盗殺人、建造物侵入、強盗未遂、現住建造物等放火未遂被告事件』

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/403/081403_hanrei.pdf

Wikipedia様(元記事の参考文献は大体は熊谷の手記である「奈落 ピストル強盗殺人犯の手記」)